つばき洞生活ノート

BBSH(バーバラ・ブレナン スクール オブ ヒーリング)の学生の日記です。

ギフト

人間は、人間である以上、なんらかの偏りを持っていると思う。

その偏りは「個性」と言い換えることが出来るかもしれない。

「個性」は、ポジティブに作用するとき、才能となって現れ、

ネガティブに作用するときには病気として表現される。

出発点は同じ。

それを、なるべく才能のほうに向かっていけるように後押しするのがホメオパシーなのではないかな。

いや、

ポジティブ、ネガティブと分けてみたけど、それだって人間の狭い視野で眺めたときの分類。

その人がより高邁な目的に向かっていっているのがOKな状態、ということになっている。

高邁な目的に向かうために自分が使役するなにかが、

人間目線で偏りをポジティブにとらえた「才能」ではないかな。

生来の偏りに由来する「才能」は、

その起源を偏り、とするならとてもあやういもの。

それは「病気」と紙一重なのだから。

だから、「才能」としての偏りにあぐらをかいては、いずれそれは消える。

いや、消えたようにみえて、実は「病気」のほうに傾きが大きくなっている。

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今の絵画教室に通うようになって5年くらい。

大人なのでそこそこで許してもらっているが、

がっつり基礎をやらせてもらえる。

教室にはこどももいて、

そっちはもっと厳しい感じ。

なによりも基礎がないと遠くに飛べないから。

理論や技法はツール。

自分が言いたいことを言うための「言葉」。

それらがないままの「才能のむき出し」は暴力に近い。

絵を描いている、

音楽をやっている、

というと、相当な右脳人間と思われることが多いが、

音楽にしても絵にしても、

理屈の上で展開することばかり。

左脳での会話からはじまる。

理屈がある、しっかりしているのは最低限の条件で、

それがあってはじめて、個々の表現の話になる。

邦楽にはあまり楽理がないと言われるが、

それでも、雑音と心地の良い和音ははっきり分かれる。

最も右脳的と思われがちのスピ業界の一角を占めていた前の学校なんて、

創始者もそうだったけど、相当な左脳世界だった。

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今日、注文していた額が届いた。

今の学校の修了証書と卒業証書(条件をみたしていないのでまだもらっていない)を入れるのだ。

色違い。

シブいな~。

修了式に修了証と一緒にもらったフェイスファイブ(アクリルフレーム)もかっこいいけど、

こういう機会を利用して、組み上がりをみてみたい棹を組んでもらった・・・勿論、買うんですよ。

こちらは、先日の絵画教室で作った「プリマ描き」での作品。

下描きをしないでぶっつけで描く。

小さい黒い額にいれた。

もとはかぼちゃでした。