学生時代に取り扱っていた史料にはたくさんの引用文献が記載されていました。
漢詩の有名どころ(とおもわれる)から地元のおじいさんのメモまで。
江戸時代の文化人たちの膨大な知の蓄積にただ呆然とするばかり。
それらの史料では地名の考証が大きなテーマになっていました。
地名の由来を明らかにし、
古典に現れる地名の比定をする。
江戸の中期~後期に書かれたものが多く、
筆者の取り扱う地域のいろいろなものに意味を見いだし、
時には顕彰し、という流れ。
あるいは、
意味を見いだし、顕彰する過程のなかに地誌の編纂があったのかもしれません。
そのなかで頻繁に引用されていたために記憶に残っている書物がいくつかあります。
「延喜式神名帳」
「倭姫世紀」
「古語拾遺」
「先代旧辞本記」
引用されていればオリジナルを参照しましょうか、
というところでざっくり調べてみると「倭姫世紀」「先代旧事本紀」は偽書。
「古語拾遺」もあやしい。
当時は「そういう文献」ということで通り過ぎていました。
書いた本人にとっては大切な資料であった。
その文献の中身が当時の人たちのなかでは「真実」だった。
それだけのことでした。
人は見たいように世界を見ていて、
同じ対象を見ていても、
各々の捉え方は0.1ミリも同じなところはないのだから。
人間の大半はDELUSIONで構成されていて、
そのDELUSIONゆえに病む。
いや、
病んでいるからDELUSIONをみるのではないかもしれない・・・卵が先か鶏が先か。
「病」「DELUSION」「人間」は三位一体だと思う。
DELUSIONから完全に解放されたら人間は人間でなくなるような気がする。
最近、ふたたびこれらの書物が目に入ってくるようになりました。
特に、
「先代旧事本紀」。
目に入る上に、別々の人間関係や情報源で同時期にこの書物が話題になっている。
便利な世の中でちゃっちゃと注文でいてしまい、
先に「古語拾遺」が到着。
面白いです。
久しぶりに夢中で読書しておりますよ。