可塑性を伴わない動的な存在が人なのではないかな、と思う。
今と全く同じ自分はどこにもいない。
スピ的な話にしたいのではなくて、
身体の最も外側では、
このひと呼吸ごとに酸素を取り入れ、
二酸化炭素を放出し、
最も内側ではカルシウムとカリウムの電位差で反応が生み出され、
その中間で細胞の新陳代謝が繰り返されて行く・・・文系の大雑把な理解よなあ、これ。
とにかく、
一瞬も同じ状態はない。
自覚症状のない、いわゆる健康な人は「バランスのとれた状態」を、
症状のない程度の振り幅のなかで維持でいている。
症状を持っていると人間の健康状態のバランスをとることの難しさ、その危うさを肌身をもって感じる。
物質的な部分以外も含めての範囲を人間の有機体とするなら、
人間同士の関係性もその有機体の関与する範囲になるのかもしれない。
病的な関係性と頭では分かっていながら、
身体的な反応で証明されていながら、
でもそこから抜け出せないのは、
やはり自分の方にその関係にしがみつく何かがあるから。
正面きって「ムリ!」と言い切れない弱さ、とかね。
久しぶりに挨拶以上の会話をした昔の仲間は、
病気をきっかけにそれまでの関係性を解消した、と話していた。
楽になった、と。
ほっとした。
はたからみていてもハラハラする関係性だった。
関係性の当事者の一方は、彼女に「母親」を求めていた・・・ようにみえた。
それに必死に答えようとする彼女。
その当事者の一方は彼女よりもずっと年上。
でも彼女は母親で、その相手は子供だった。
彼女には素晴らしい伴侶がいて、
その一方の当事者にも家族がある。
でも母娘の関係を志向していた。
これは私の妄想かもしれない。
でも私がその関係性や、その当事者と関わっていた頃には、
本当に身体的に症状がおきるくらいに、その当事者の周囲の関係性を見ているのがつらかった。
もう、一秒たりともその場にいたくない。
そう思う前に、身体がこわばり、息が浅くなり、感覚が麻痺して行った。
私は「機会」を待っていて、
その機会を利用することを選んだ。
選択の決め手は身体感覚だった。
関係性を変えてしまう選択とそうでない選択と、どちらがいいかと身体感覚にたずねたら、
なんとも正直に前者だと答えた。
そっちを選択した場合のいろいろな結果を思った。
感情面でひっかかるところもあった。
でもどこか私は自分の身体感覚を信じているところがあるのでそちらに従った。
それが正しかったかどうかはわからないけれども。
確実に言えるのは、
その後の自分の大きな意味での体調が良い、ということ。
言葉としてあがってくるものには色んなバイアスがかかっていて、
ときに全くあてにならない。
でも、身体感覚はシンプルに結論を導く。
身体を健康的な状態に保ち、本来の方向へ向かおうとするのが生命力の正常な働きだから。
エネルギーは常に動いている。
それが人間にとっての正負いずれかの方向に関係なく。