合奏の時、
笙はずーっと和音を吹いています。
しかし、
一つの和音(合竹と言います)から別の和音に変わる時に、
同時に全ての指が動くのではありません。
前後の和音によって指はバラバラに動きます。
そうすることで他の管のフレーズの切れ目で笙の手移りが聞こえて来て、
次の音のための音程を示し、
メリハリのタイミングで拍子を決めることができるのです。
自分は笙吹きでもあるから、
笙の役割としてのこうした「一般論」は知っていました。
そして現実はまた違う、ということも。
笙だけを吹いている時に、
三管(笙、篳篥、龍笛)合奏でどうしても笙だけが置いてけぼりな感じが拭えないから、
とりあえず主旋律の篳篥の気持ちを知るために篳篥を吹き始めました。
そうすると今度は、
笙の音が気になって仕方なくなりました。
現実には自分の脳内で流れる笙とは全く異なる笙もある訳で・・・。
「そういう時は笙を聞かないで自分が好きなように吹けばいい」
と言われました。
でも、
元来が笙吹きなのでどうしても聞こえて来ちゃう。
結果、
常に不完全燃焼。
「?」マークが飛びまくり。
今日は、
初めましての笙の方と篳篥本番でした。
今日の龍笛さんとは度々合奏の機会があって存じ上げていて、
その龍笛さんといつも一緒に吹いておられる笙の方。
本番の前にちょろっと「五常楽急」を一緒に吹いたら・・・
なにこれ・・・
楽しすぎるやん・・・
車で吹いて最初の2行はお互いにそろそろを吹いていました。
慣れて来た3行目あたりから楽しくなって、
あー
もう、ずっと吹いていたい。
本番に車で3巡くらい吹いた「越天楽」も楽しくて楽しくて。
「笙の流れに乗っかって吹いていればいいんだ〜」
っていう安心感。
篳篥が主旋律、と言われるけれども、
曲を作るのは笙だ。
篳篥は笙の作る構造をたどるだけでいい。
「次に必要な音をくれる」
「拍子を作る」
笙のポジションはそういうレベルで語れる役割を担っていない。
もっとハイレベルなものを負っている。
いつものリードで吹いていたのに、
「今日はよく鳴っていた」
と、今日の龍笛さん。
そう、
変なところで息をためなくても良かった分、吹き込めたのだと思う。
十分な間を取ることができないのは、
練習不足と肺活量への不安からかと思っていましたが、
笙に任せて吹けた今日はしっかり間を取ることができたし、
その上に息も十分にありました。
いかに、笙が大事なのか痛感しました・・・ああ、楽しかった!!