私の感受性がどうひん曲がっていようと、
今は「そう」としか思えないのだからそれは仕方がない。
それを無理に、
「感謝」
とか、
「共感」
とかしても、
それは偽りの自己だから。
この偽りの自己が叱責し、
鞭打っているのが、
内なる子供でロウアーセルフワーセルフ。
「そんな風に感じるのは間違っている」
「ネガティブな感情はだめ」
そう言って、なかたっことにすると、
いつかまた、もっと激しい形で表現されるから。
だからと言って激しい感情を放し飼いにするのは決して得策ではなく、
「もういいかな」
と思うタイミングで教えてあげる。
決めるのは、
決めていいのは私だけ。
あと、
無理に「共感」しなくていい、とも最近知った。
考えてみれば、
共感なんて求めていたらきりがない。
あなたも私も、
その経験は人生は各々のもの以外のなにものでもないから。
できるのはせいぜい、
一緒にそこにいることだけかな。
でも、
これって出来そうでできないんだよね。
激しい感情を目の当たりにしたら、
びっくりしちゃうもん。
色々な声が自分の中でけたたましく鳴る。
でも、
ここにいるから。
って断言できるのがヒーラーなのかな、と最近思いました。
何かが見えるとか聞こえるとか、
そういうのが大事なんじゃない。
不完全な自分のまま、
そして、いま一緒にここにいますよ、って。