千利休の教えをまとめた「利休道歌」の一つを引用したものといわれていますが・・・こういうのって利休一人のものじゃなかったりするよね。
それはさておき、
その利休道歌の一首、
規矩作法守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな
からの言葉が「守破離」。
修行は、師匠から教えられた(ときにそれは「教えられる」ことさえないのだが)型をひたすら辿ることにはじまり=守
それが骨身についてのちにその内容を検討し始め=破
自分の創造性を加えていくようになる=が、それは師匠の教えの本質からはずれることはない=離
これ、
とてもよくわかります。
私が触れた華道の基本はお生花の真・副・体の構成要素。
茶道の基本は薄茶の風炉の点前。
箏曲三絃にあっては組歌。
雅楽なら管絃の「越天楽」「五常楽急」「陪臚」の唱歌に全ての要素が含まれていると言われる。
絵画ではデッサン。
英語なら英「借」文、
数学は解法暗記。
一番身近な箏曲三絃でいうなら、
最も有名な古典曲で、
でも歌を伴っていないという点で実はかなり特異な「六段」は、
組歌の形式を踏襲しつつ、器楽のみの構成に仕立てたまさに守破離の賜物。
そして今は基本中の基本となっています。
一見簡単な曲ではあるけれども、
これを理解するのには相当な時間がかかる。
段物とは型の典型。
それを学ぶのは守、
身に付け、自分の解釈で全体を構成する過程が破、
それでも、その演奏は「六段」のエッセンスを表現しているのが離。
前きが長くなりましたが、
BBSHで学ぶヒーリングののスキルもこれに通じると思うのね。
バーバラや、
今の校長であるローリー・キーン、リサ・フォン・オステランド、ドナ・エヴァンスはとんでもないサイキックだと思うし、
「この先生、今、何が見えてるん?」
と訝しく思ってしまうくらい不思議な視線をびゅんびゅん飛ばしている先生もいる。
でも逆に、全くサイキックじゃない先生もいて、
「んー・・・昔はいろいろ見えていたけど今はわからないな〜」
という先生がいたり、
「いや〜、自分は全然サイキックじゃないから」
と、最もサイキックな学年と捉えられているYear3の先生が言っちゃったり・・・そしてそういう先生ほど、ド・直球の球を投げてくるからたまったもんじゃない。
生徒だって、すんごいサイキックな子もいれば、
そもそもなんでBBSHに来ちゃったのかわからないよ、って子もいる・・・私みたいに。
それでも、
バーバラが作った「型」を辿ることで、
「破」や「離」が起きる。
それがクリエイティビティーの発露なのではないかな。
だから、
皆に門戸は開かれているの。