作曲:光崎検校
三絃:二上り
一、憂しと見るも月の影、嬉しと見るも月の影、薄雲のたなびきて、心の色ぞほのめく
一、ゆかり嬉しき面影、ひきとめし袖の香、忘れられぬ情けに哀れを知るもことわり
一、逢う毎に時雨して、深く染むる紅葉ふき散らす山風、心無きもうらめし
一、夜もすがらつくづくと、ありし夜のこと思い寝の夢にみる面影
一、如何にして我ねやへ来ることの嬉しさ、果てなく夢さめて、かすかに残るともしび
一、夢にみしふしども、覚めていねたるふしども、変わらぬぞ恋しき、さめて姿のなければ
一、まぼろしの姿も夢路ならではいかで見ん、絶えて交わさぬ言葉も、あづさにかけてかわさん
組歌表組「菜蕗」との打ち合わせができる曲。
光崎検校は天保年間の天才作曲家。
当時の総検校・安村検校が組歌の乱作を禁じるために自身の作曲である「飛燕の曲」をもって組歌の最後のものとした。
それに対して新形式の箏曲「秋風の曲」を作曲したところ、評判すこぶる良く、先輩方の嫉妬をうけて京都追放・・・。
その追放の期間中に組歌「菜蕗」と合奏できるこの曲を作る。
いや〜、ロックすぎるよな、光崎検校。
個人的には安村検校の「飛燕の曲」もお上品で好きですよ。
準師範試験にはこの「飛燕の曲」は必ず出題されるし、名曲だと思う。
でも、当時のヒエラルキーに真っ向からぶちかましに行く光崎検校、いいな〜。
中世〜明治維新までは日本の社会は権門体制論で捉えた方がわかりやすい。
「武家」という権門
「朝廷」という権門
「寺社」という権門
ある共通項でくくられた小さな社会が独自に封建的な構造と秩序のもとで運営されていく。
盲人社会もそうで、その起源に貴種流離譚を交えつつ、
総検校、検校、別当、勾当、座頭(細かくわけると73の位)
と官位官職のようなものを設定し独自の社会を形成していた。
官位を得るためには京都にあった「職屋敷」と言われる本部に金銭を収める必要があり、
73も位があるってことはその位ごとに金銭の授受があったわけで・・・家元制度における免状獲得プロセスを想像してください。
あと、もっと今っぽく言うなら「協会ビジネス」ね。
「菜蕗」は雅楽「越殿楽」に取材した曲、と言われるし演奏してみれば「そうなんだろうな〜」とは思うけれども、
調絃が平調子=陰音階になっているので印象はずいぶん違う。
筝の手と楽箏のそれに共通点は多いに感じるけれども。
楽箏の調絃からヒントを得て「古今調子」をつくった吉沢検校は光崎検校と仲良しだったそうで、面白いです。
吉沢検校は尾張の人で8歳で「屋島」を作曲しちゃう、こちらも天才。
「古今調子」は13しか絃がない筝において第2絃と7絃に同高同音をあてちゃう、凡人の発想からみれば逆ベクトルの調絃。
「春の曲」「夏の曲」「秋の曲」「冬の曲」の作曲者で、
京都の業界人に言わせると、この総称・四季の曲が流行ったのは京都の松阪検校の補作と替手があったから、らしいけど、
吉沢検校の地元・名古屋では松阪検校補作部分は演奏しないとかなんとか。
尾張文化圏を感じながら育ち、芸の地元は京都な私は複雑な心境よ。
師匠試験のときにハッキリと、
「(吉沢検校の四季の曲は)松阪検校の補作と替手がなかったら面白くないから誰も弾かん」
と断言されたし、正直、私もそう思う。
4月以降、色々ありまして全く楽器に触れなかった私を師匠は容赦無く元の場所に戻してくれる。
「次はこの曲を(菜蕗と)合わすで」
ってスパルタすぎるやろ〜。
ようやく、短時間ながら楽器に向かうことができるようになったこの頃です。