つばき洞生活ノート

つばき洞生活ノート

BBSH(Barbara Brennan School of Healing)卒業生による日々の記録です。

立春、新年

かれこれ5年くらい参加している勉強会が今年も始まりました。

この勉強会と同じ素材を使った別の勉強会はそれよりも前に5年間参加していたので、

合わせて10年ほどこの素材が展開する世界観に身を置いていることになります。

 

素材は同じでも提供者によって響き方は全く異なる。

 

これは当然にして、しかし難しいところです。

 

基本的に素材の質が損なわれることはないと理解しつつも、やはり伝達する側の責任はありますので、

あなたが今、所属しているグループで何か違和感をおぼえているとしたら、それは正解。

コンテンツの質の重要性や必要性に気づいていても、伝達者の在り方とあなたの相性は別の次元で、それを理解した上でそこに居続けるのはアリ(これはリーダーが押し付けることではない、当然に)。

 

そしてその違和感は、ひょっとしたらそのリーダーがリーダーの責任を放棄しているケースかも。

これは普通の、世間的な感覚で判断できるところです・・・

その勉強会を始めたのは誰ですか?

会場を確保しているのは誰ですか?

コンテンツを組んでいるのは誰ですか?

 

置かれた場所(私の所属したグループでのケースはリーダーが自ら進んでその役割を担っていたが)への抵抗はリーダーのプロセスだけれども、そうなると「いたいけな子羊=参加者」は置き去り。

 

それに気づいた時点で「相性が悪いから」とバッサリ切り捨てるのもありだし、敢えて我慢比べをしてもいいと思う。

 

私は我慢比べをするタイプで、

その点で言えばそんじょそこらの我慢なぞ我慢のうちに入りませんので「この先に見えるものがあるはずだ」と踏ん張ってしまいました。

そうでない方法もあったし、それをしなかったのは「新しい方法」が怖かったからとも言えます。

一方で、踏ん張って見えてきたものもあるのでどっちもどっち。

 

もう一方の在り方を選択した場合の結果を見ることはできませんので、

一面においては防衛の結果として、またもう一方ではそうではないことのこの現状をどう受け入れるかがキモのようです。

 

ヒント

帰ってきました。

東京、意外と近いのです。

 

ただ、東京にいると私の中の在原業平が騒ぐのです、ここは東国だと・・・いや、業平こと「東下りのまめ男」は知立にいても東国東国言うてたけどさ。

 

一昨日から昨日にかけて当該地域にしてはまあまあの積雪だったようで、
東国から西に向いて帰ってきたわりに地元が寒い。

 

明日の目的地・京都も時雨ているのだろうな。

 

師匠に「七小町」「石橋」を合わせてもらいます。

5月(6月かも)の特別鑑賞会は「八重衣」の三絃での出演とのこと。
前情報では「三津山」だったけど、そう来ましたか・・・準師範試験で思いっきりズッこけた曲だわ・・・トラウマぁ。

 

「八重衣」は京地歌の名曲中の名曲です・・・そんなことばかり書いている気がするけれどもこの曲は別格。

故に、所属会の最高試験である準師範試験では必ず課題曲になっている。

三絃作曲は「新青柳」の石川勾当、箏手付は(もちろん)八重崎検校。

むしろ八重崎検校の手付でフューチャーされた曲と言っても過言ではないし、そのような曲は多い。

 

八重崎検校のオリジナルの曲もあるけれども、

八重崎検校の功績といえば、

数えきれない地歌の名曲の箏手付=伴奏ではなく合奏のための独立した作曲をしたこと。

彼の華やかな箏手付があって三味線の原曲の魅力が無限大に引き出される、といったこともしばしば。

 

京地歌を演奏していれば「またあなたですか!」というレベルで彼は登場するけれども、
どの箏手付も三絃のポテンシャルを最大限以上に引き出しつつ、箏の魅力も厳然とそこに表現されている不思議。

 

後付けの箏が引き立て役では決してなく、

その楽器の個性を活かしつつ相手=三絃原曲の魅力を引き出す。

 

自分が慣れ親しんだ合奏のあり方ですが、
これもまた別の場面での自分なりの方向性へのヒントかもしれません。

収縮期

絶賛、ワークショップによる拡張状態からの移行中です。

1分1秒単位での状態の変遷を感じます。

 

電車を乗り継いで定宿に帰る帰途にて、自分的「これぞ東都」なお食事をテイクアウト。

絶対に普段なら口にしない、拡張真っ只中で明日からの進行を考えると我ながらなかなかの選択ながら、ここ数年来憧れた未知のそのお味は大層おいしゅうございました。

テイクアウトできるシステムも自分の状況ではとてもありがたかったです。

 

宿の最寄駅前では東京滞在中ずっと露店のミネラルマルシェが開催されていて、

全てを終えた今日、やっと冷やかす気分になりました。

個人的に自分の好みの美しいものをただただ眺めるのは、この収縮期にはとてもよい。

拡張期に見ちゃうと見るだけで終わらなさそうですしね。

 

お誕生日会【姪】

姪のお誕生日会お食事のリクエストは、桃とチーズの生ハム巻き(生ハム多め)。

小学校高学年、渋い味覚である。

一緒に巻くチーズはクリームチーズかマスカルポーネ。

これに黒胡椒と美味しいオリーブオイルをかけると更に大人仕様となる。

特にリクエストはなかったけれども鴨のローストも作った。

これも姪の好物。

鴨料理の、ちょっと油断すると食べごろを逃してしまうあの感覚の楽しいこと。

 

美味しいお蕎麦があったので大人はシメに鴨南そば。

鴨のローストを作る途中で出た油で白ネギをしっかり焼いて添える。

 

もともと食べる方ではないので上記いずれも仕上がりチェックの一口ずつで満腹。

お蕎麦の入る余地なぞ到底ない。

お料理って、調理中に何も食べていなくても胸ぶくれがして出来上がるころにはおなか一杯。

 

姪と母(姪にとっては祖母)と私は誕生月違いの同じ日付生まれ。

あくまで自分の匙加減

現世において過去世の影響があるとすれば、それは現世での出来事に表現されているはず、持ち越し課題なのだから。

ゆえに、今わたしが葛藤を感じていることに目向けるのが手っ取り早いし確実で安全だ。

 

今、ここからわたし自身が査定すること。

 

これに尽きる。

 

そしてこれはわたし以外の誰かが代わりにできることではない。

 

わたしの人生をわたし以外の誰かに明け渡すなんて、そんな面白くないことはないはず。

 

少なくともわたしの本質はそう感じている。

 

今の不都合さから目を背けるための「お話」は時に魅力的で甘やかなものかもしれないけれど、

根本解決にはならないしむしろそこからわたしを遠ざける、確実に。

 

とは言え、成り行き(家庭教師先の生徒の保護者が占い師で、

あまりにも生徒が授業をすっぽかすのでその埋め合わせで占われたとういう顛末)で告げられたわたしの過去世とやらは、

「中流階級家庭に生まれ、そこそこに結婚し子供を得て、平穏無事に終わった」と、

大層平和だったようだが、それでも転生しているということは何か理由があるのだろう。

 

当時の「占い師母さん」のコメントは、「平穏すぎて物足りなかったから転生を選んだ」

とのことだったが・・・なんだ、その平和ボケマインドな前世は、と自分に腹立たしさを覚える。

 

自分が獲得した情報をどこまで取り入れるかはあくまで自分の匙加減。

 

なんだか口うるさい感じになってきたので、「とにかく嬉しい」の犬たちを貼っておきます。