最近気づいたのだが、
あまりにも感覚が麻痺しすぎていて自分が一体なにをしたいのかがわからなくなっている。
という話を、BB関連で受けることになっているセッションで話したところ、
「誰かのために、と思ってやっていることはありますか?」と尋ねられた。
そうねぇ・・・
完全にだれかのためにやっているばかりのつもりではないけど、
勿論、古曲をやっていて(そこそこ)楽しいには違いなく、
そんなぼんやりな感じでも続けているのは、
また、
ほぼ全否定に近いエネルギー=言葉をくらってもブレないでいるのは、
その曲たちを作り、伝えてきた人たちのことをおもうから。
最も身近だと師匠やし、
大先生やし、
津田先生になる。
範囲を拡げると、
自分の好きな2代吉沢検校、光崎検校、八重崎検校という有名どころ。
あるいは検校、勾当職を許されなくて、
でもこの業界の曲を伝え続けた名前の残っていない人たち。
皆に受け容れられる音楽はどの時代、どの場所にもないとおもうけど、
箏曲三絃の古曲に関してはなかなかその門が狭いのはわかっている。
でも、
いつかそれにアクセスしたい人が現れたときに、
ちゃんと伝えられるように準備しているつもりではいる。
これが大雑把に「だれかのため」に近い感じなの、私にとっては。
たった400年くらいの歴史(歌舞伎と同じくらい、ね)しかないけれども、
だから、まだまだ現代の我々に近い要素がたくさんあると感じている・・・近世ってそういう時間軸にあるんだよね。
人間は元来曖昧な存在なのに、
白黒つけようとするから苦しいだな。
自分も楽しいけどそれが「誰かのため」ともかぶっている。
「きかせてあげよう、という感じがする」
と言われたことがあって、
それはそれで色々考えたけど、
結局は、
バカの考え休むに似たり
で、目の前の課題に真摯に取り組むしかないわさ。
そう「感じた」のはその人の傷であり、
私を含む集合体の傷かもしれないし、
そんなことを考えていたら動くものも動かず・・・悶々として表面的には同じ方向にしか向かっていない。
交わらない道もあるよね、それはお互い様で仕方ない。