犬子が逝ってから約3ヶ月。
なにが寂しいかって、
何かちょっといいことがあった
美しいものを見た
そのような瞬間の感情を伝える相手が減ったと感じること。
たとえば、
「牡丹の蕾がはち切れそうよ!」
などと、
日常に厳然と存在していた意味深い間隙を伝える対象が
「ぽか」っとなくなったことを実感するとき。
”仮にも一端の「ヒーラー」だから何らかの特別な措置をできた”
と期待されるのは重々承知していながらも現実はどうだったかというと、
そうでもないし、そうであったというところ。
ひたすら、
「犬子の病と死(そして生)のプロセスに付き合う」
というコミットメントに立ち戻ることの繰り返しのなかで、
外側に原因を求めて自分を失うのではない方法で駆け抜けた。
なにか特別なヒーリングスキルを用いることはなかったけれども、
このプロセス自体がヒーリングだったと断言できるので前出のまわりもった表現となるわけ。
ヒーリングとは何か
何度もこの問いにかえってくる。