かねてから予定されていた演奏会は、
先の日曜日に無事終了いたしました。
着物も片付けてやれやれ、と言ったところです。
本番当日の客席はコロナ禍前とほぼ同じかそれ以上状態で、
一と演目の演者の数はやや少なめ
・・・これはコロナ云々ではなく我が所属会の高齢化が大きな要因ではないかと。
所属会は古典曲の伝承を主な目的として掲げている、
明治維新以後の中世的なヒエラルキーの解体で紆余曲折してきた集団が母体でして、
団体としてのあり方の変遷は、
カテゴライズの適切さはさておき、
「元・歴女」としては大変興味深いところはありつつも、時の流れにはかなさを感じずにはいられません。
古典曲のよさを感じるのにはなかなか時間を伴うものと、個人的には思っておりまして、
その時差がなかなか今風ではない、ともよくよく理解しているつもりではあります。
私の経験で申せば、
「型」を身につけるのには物質的な時間が求められるのですよ。
琴(あえてこの表記)の有名作品である「六段」にしろ、
雅楽で最初に習うことの多い「越殿楽」にしろ、
その特殊性をびしばし感じるには時間を要します。
箏曲の古典をやればやるほどに、
「六段」の特殊性に打ちひしがれますし、
雅楽の古典をやればやるほどに、
「越殿楽」のヘンさ加減にビビります。
そんなヘンな「越殿楽」は
中世において「今様越天楽」、
近世においては箏組歌「菜蕗」、
現代においては「黒田節」へとその主旋律が受け継がれる変幻自在な恐ろしい子でして。
先人が綿々と、
しかし嬉々として伝えてくれた古典曲の素晴らしさに
我々は中毒せずにはいられないのです。
そして、
古典を侮るなかれ。
それなくして発展成長はないのです。