10年ほど前、ホメオパシー繋がりで購入したものの、
内容が全く頭に入って来なかったために書棚の位置風景を構成するのみにとどまる存在だったこちらの本↓
自分の生活にライアーが加わるようになり、その成り立ちや音階を調べているうちに、
シュタイナーはどうしても避けられない、
となったときにやっとこの本を随分前に諦めたまま放置していたことを思い出しました。
改めて読み始めると大変興味深いこと。
シュタイナーについて全く知らない地点から読み進めているので正しく理解できているかはわかりませんが、以下の部分は私の長年の疑問への答えと思われました。
音楽体験は人間全体に関係しており、音楽体験において耳は、通常考えられているのとはまったく異なった機能を有しているのです・・・音やメロディーやハーモニーは人間全体で体験されるのです。
『音楽の本質と人間の音体験』ルドルフ・シュタイナー/西川隆範訳 イザラ書房
シュタイナーの言う「人間全体」には物質以外の部分も含まれていると思われるので限定的な話とはなりますが、
音楽鑑賞に関して宮城道雄師の随筆だったかに(詳細忘れ・・・)、
耳が全く聞こえない方を三味線の演奏会にご招待したとき、
その方々は音を振動として知覚して鑑賞なさった、
とりわけ三味線は太鼓の構造をもっているので空気を振動させるのに優れており、
耳の聞こえない方には空気の振動として音楽が伝わった、
というような箇所があったように思います。
音楽体験が耳にだけによるものであればこのようなことは起きないでしょう。
耳という感覚器の話からは逸れるかと思いますが、
色彩と目の関係も同じようなのではないかと推測しています。
つまり、色彩の体験においては目のみならず人間全体で体験しているのではないか、と。
以下は検証したわけではない、全く個人的な感覚に留まる話ながら・・・
箏曲地歌の古典曲の多くが視覚を失った方々によって作曲されています。
それなのに非常に色彩豊かな情景を想起させる作品がある一方で、
私にとってのある種「未知の領域感」をおぼえる作品にも出会います。
少し想像力を豊かにしてみると、
古曲の作曲者のなかには生後に視覚を失った方もいらっしゃって、
見えていた期間に体験した色を音に乗せて作曲しておられるのではないか、
と思い至るのです。
宮城道雄師はこのタイプで、「瀬音」は祖母と見た利根川の流れを描写したと伝わっています(またしても出典わすれ・・・)。
単に作風の違いなのかも知れません。
それでもいち演奏者側の立場ながら、
では演奏するとき、鑑賞するときに使っているのが耳だけか、
と言われると、それは全く違うと言い切ることができるのです。
物質世界の器官の可能性に開くことはそれ以外の人間の領域の可能性に開くことにつながるでしょう。
最後に「瀬音」の動画をどうぞ。
宮城師の演奏と、「こんなことやってるのね〜!」がわかる動画付き演奏です。
↓1分20秒あたりの裏連!(爪の裏をつかってぴろぴろ〜ってしてるところ)