対象にもよりけりだと思うし、
それを為すひとの才覚にもよると思うけれども、
自らの経験と周囲の方々の意見をまとめると、
「大概のことは理解してある程度身につくまで10年はかかる」
ということになるらしいです。
思い返せば、箏曲で最も有名でありながら独自性ではピカイチと言える、
古典中の古典であるところの『六段』は、習ってから10年以上経ってようやく、
「ああ、八橋検校はこういうことが言いたかったのね」
と、すこーしばかり「何か」が腑に落ちた記憶があります。
『六段』を習うに必要な免状は、我が所属会では一番初めの始めのところだったと思います。
それくらいに皆が最初に習うし、我々の祖母の世代ですと嗜みとして少しはお琴(箏)にに触れました、って方ですと大概は『六段』(それと『千鳥の曲』)はご存知なのです。
そう言えば、『千鳥の曲』も古典の中ではイレギュラー中のイレギュラー。
用いられる「古今調子」はこの『千鳥の曲』と『春の曲』『夏の曲』『秋の曲』『冬の曲』だけなのです。
イレギュラーであっても、音楽史上で重要であることに変わりはなく、
私が所属する会の師匠職格取得のための試験では必ず課題曲のうちの一曲は「古今調子」の曲と決まっています。
『六段』の独自性は、西洋古典音楽の研究者である皆川達夫先生が、
グレゴリオ聖歌と『六段』の共通点を検証し、
日本(定義はともかく)に西洋音楽が取り入れられた時期を検証しておられます・・・興味深し!
邦楽古典に軸足を置いていない方にとっては、筝や三絃、胡弓などの楽器は音色を発する道具でしなかないらしく、
あるいは「対西洋音楽楽理」としての構造のようで、
ご感想をうかがうにあたっては薄ら笑いで対応します。
立ち位置が違うのだから仕方がない。
そもそも見ている世界が違うのだ。
そしてその方がその世界観を選択したい分には私は何も言うことがないし、
それはお互い様だし。
そう思うと、
目に見えないとされた世界を科学的に解こうとしたバーバラも、
純粋なガチガチの邦楽であるところもの京地歌を、西洋音楽の楽理で説こうとした津田先生も、
なんて優しいんだろうと思うね。
私なら
「あなたがそう言う世界に生きたいのならそうなさいまし、私もそうさしてもらいます。」
って言っちゃうもんなー。